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多田弥太郎顕彰碑訪問記

豊岡市出石町暮坂、養父市八鹿町方面から出石町方面へ浅間トンネルを抜けると左手に多田弥太郎顕彰碑が姿を現しました。

たまたま通りかかって発見した多田弥太郎の碑。案内板に書かれている内容を読んで初めて多田弥太郎という人物の生涯を知りました。壮絶な人生を送ったようです。

ところで豊岡市民とはいえ、そもそも多田弥太郎のことを全く知りませんでした。もし、この道を通らなければ存在さえも知らずに人生を終えるとこでした。良い出会いでした。

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多田弥太郎顕彰碑の写真

撮影日:2008年2月11日

多田弥太郎顕彰碑は浅間トンネルの北側、京都府道・兵庫県道2号宮津養父線沿いにありました。

同じ敷地内にあるものですが、これはなんでしょう。

■案内板より↓

皇家 多田弥太郎顕彰之記

通称弥太郎 幼名は経之、のち立徳。海庵と号す。(1826~1864)

文政九年出石藩仙石候の世臣多田義徳の長子として出石城下柳町に生まれる(母は八鹿町伊佐、小出家の出)弥太郎幼少にして頴敏、藩校弘道館に学び長じて大阪に出、藤沢東咳、古賀伺庵に就いて朱子学を修め、さらに幕府昌平校(東京大学)に学ぶ

弘化三年(1846)主命により帰藩し、若冠二十二歳で弘道館教授となる、この頃黒船頻に来航、世情騒然感ずるところあって海防に志し、師を長崎に求め高島秋帆高弟大木藤十郎に就き西洋砲術を学ぶ。

その後、鍋島候の寵遇を得て帰藩し、嘉永二年(1894)出石城外室の台に於て藩主久利の御前にて洋式大砲(木製)を試射しその学ぶところを両丹、尾、紀、因、越、諸藩の有志に授け名声を博した。

嘉永七年(1854)に至り藩主の養嗣子をめぐる問題、兵制(砲術)問題等で時の藩執政、堀新九郎の専横を憤り単身江戸に奔り藩の後見役豊前岡藩主中川修理太夫に施政球団の上書を提した捕えられ出石に逆送、九ヶ年に亘る幽閉を受ける身となる。

その間「国体一覧」。「海防難儀」。「地球小識」。「闢蝦夷策」等を著し、国防の策を水戸烈公(斉昭)に献じ蝦夷を北海道と改称すること、また屯田兵制度をおこし蝦夷地を開拓すること等提言して刮目された。また勤王の志篤く、中条右京(姉小路卿用人、出石人)を通じて朝紳に書を献じ、その名は広く公卿の間に高まった。

文久二年(1862)十一月藩主直々による藩政改革によりようやく赦免、再び弘道館にむかえられ、堀新九郎父子は専攻の責を問われて自刃した。

文久三年三条西中納言季知の召により、同士高橋甲太郎(出石藩主勤王家)と共に京師に赴く途中、七卿の都落ちを聞き追尾して長州に至った、同年十月平野国臣等の生野義挙に、同志高橋甲太郎、中条右京と共に参加、敗れるに及び後日を画して沢卿を説き、高橋甲太郎を従わせ長州に落ちのびさせた。

挙兵の志士の多くは山口妙見山麓で自刃したが弥太郎は逃れて京都に潜み、なおも因、伯の志士を募るため湯島(城崎)に至らんとして八鹿町寄宮の駅で藩吏に捕われ籠輿に載せられ出石に送られる途中浅間峠頂上において警士のため惨殺された。

時に元治元年(1864)二月二十八日凶年三十九歳であった、屍は藩命により獄に埋め父母、妻子、弟妹すべて禁錮に処せられた。時移り明治二十四年(1891)明治政府は故人の忠烈の死を悼みその功を嘉して特旨従四位を贈り、靖国神社に合祀した。墓碑は出石経王寺にある。

多田弥太郎顕彰会

名称 多田弥太郎顕彰碑
所在地 兵庫県豊岡市出石町暮坂
開園時間 24時間
休み 年中無休
入場料 無料
駐車場 数台
公式サイト なし

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